西洋医学に見放され、余命1年の宣告にも負けず、自己治癒力で勝負しています

大腸内視鏡を受けるまでの症状 はてなブックマークに追加
2005年12月19日 (月) | 編集 |
日本に一時帰国していたとき、ある友人からオーガニック野菜生活の話をとくとくと聞かされ、夫婦ともどもすっかり感化され、アメリカに戻ってすぐにオーガニック野菜生活にした。それまでは、必ず夕食のメインは肉か魚を出していたが、それからは野菜中心のメニューになり、肉も魚も食べない日が続くようになった。すると1週間もしたらなんだか体調がよくなってきて、便通も改善された。これですっかり気を良くしてしまい、あとで思えばこれがまた検査を遅らせる要因ともなったのだが、とにかくこのときは食べ物でこんなにも体調が変わるものだと実感した。

しばらく調子が良い日が続いていたが、1ヶ月も経たないうちにまた便通が悪くなってきた。下痢と便秘を交互に繰り返すようになってきた。そして常に腹部膨満感を感じ、寝ていると楽な感じがして、ベッドで横になることが多くなってきた。12月に入るとさらに体調が悪くなり、一日中ベッドに寝ていることもあり、日常生活にも支障をきたすようになってきた。食欲もないため、体重も減った。当時は少し痩せたいと思っていたので、むしろ体重が減ったのはウェルカムであった。

さすがに長期間異常が続いていたので、保険に入ってないとも言ってられず、12月19日に医者へ行った。そして大腸の専門医を紹介してもらい、大腸内視鏡の検査予約を1月31日に入れてもらった。アメリカでもやはり人気のある医者は予約で一杯だ。それにしても、医者に「便の色はどうですか?血便は出てますか?」と聞かれたときには焦った。なぜなら自分の便を見たことがなかったからである。一度も見たことがないというわけではないが、毎日自分がしたものをチェックする習慣はなかった。肛門は触ったことがないし、便も見ないし、お嬢様ってわけでもないが、案外お嬢様っぽい生活?をしていたものだと、自分で妙に感心してしまった(笑)。

以前は肛門が痛んだが、このころになるとむしろ肛門というより、尾てい骨が痛むような感覚が出てきた。痛みはさほど大きいものではなく、鈍痛といった感じ。痛さの質は、尾てい骨を打ったときのような、そんな感覚に似ている。よって一カ所が痛いというより、尾てい骨を中心としたその一帯が痛いような感じがある。そして便をするときには、痔のような痛みはない。まさかこの痛みがガンの疼痛だったとは、当時知る由もなかった・・・。

神様からの贈り物だろうか?ずっとほとんど起き上がれない状態が続いていたが、年末年始だけはものすごく調子がよく、おかげで紅白も見れたし、おせちもおいしく食べることが出来た。しかし年明けから急に食欲がなくなり、体調も悪くなってきた。体重もかなり減った(運動など何もしていないのに半年間で6キロ減)。さらに便通異常による腹部の不快感が耐え難いほどになってきたので、さすがに31日までは待てないと思い、再度医者を訪れ、予約を早くにしてもらうか、あるいは別の専門医を紹介して欲しいと依頼した。この時点で血便、倦怠感、微熱が続く。血便については、恐らくもっと前から出ていたのではないかと思う。なんせ見ていなかったのだから・・・(苦笑)。
大腸内視鏡検査、そしてガンの宣告 はてなブックマークに追加
2006年01月17日 (火) | 編集 |
2006年1月17日大腸内視鏡検査を受けた。話では、内視鏡自体はほとんど苦痛はなく、むしろその前に飲む下剤のほうがつらいと聞いていたので、安心して受けたが、実際はとんでもない苦痛であった!検査中あまりの痛さに私は泣き叫び、なんと3人の看護婦に押さえつけられたのである!!もちろん下剤もつらかった。アメリカの場合、日本と違い、自宅でジュースを飲みながら下剤を飲むのだが、もうまずいのなんのって、今でもあのときのホワイトグレープジュースを見るだけで吐き気がしてくる。恐らくもう二度とホワイトグレープジュースは飲めないであろう。

それにしてもアメリカは動きが速い。私が内視鏡検査終了後、瀕死の状態でベッドにうなだれていたところへ、もう写真付の検査結果及び医師のコメントが書かれた紙を持ってきた。そしてあっさりと「ガンです」と言われた。cancer という単語が聞こえたので、自分がガンらしいということは理解したのだが、あまりにも唐突で、しかも瀕死の状態だったので、「ああそうですか、ガンですか」ってな感じで、そのときはあまり実感が湧かなかった。さらにはアメリカで治療を続ける場合の医者までが引継ぎの挨拶に来た。医者にはアメリカで治療を続けるか、日本に帰国するか、とにかく至急決断したほうがいい、と言われた。とくに私の場合35歳という若さだったので、ガンの進行も早い。素人ながら直感でそう思った。だからすごく焦った。家に帰るとだんだん自分がガンであるという実感が湧いてきて、ものすごい恐怖を感じた。その日の夜は、自分の悲運を恨み、夫と泣いた。声を出して大泣きした。夫の涙を見たのは初めてだった。とてもうれしかった。ほんの少しだけガンに感謝した。
初めて救急車に乗った はてなブックマークに追加
2006年01月23日 (月) | 編集 |
ガンを宣告されたその日に帰国を決断、3日で荷物をまとめて日本に帰る準備を整えた。前々から帰ることが分かっていたのではなく、普通に生活していた人がある日突然3日後に帰りなさい、と言われたようなものである。引越しの手配、車の処分、賃貸契約及び公共料金その他もろもろの解約など、目が回る忙しさだったが、それでもけっこうなんとかなるものだなと思った。大腸内視鏡で全部出すものは出してあったおかげで、私の体調もこの3日間だけはさほど悪くはなかったので、本当に助かった。それにしても、今回は長くアメリカに住むつもりで高級家具をそろえたので、それをすべて無料であげてしまうのはなんとも悲しかったが、もうムービングセールなどをやってる時間はなかったのでしょうがない。

まず第一番目の問題の発生は、まさに日本へ帰る日の空港で起きた。今回は体調が悪かったこともあったので、機内で寝れるほうがいいと思い、清水の舞台から飛び降りるつもりで、な・なんともう一生乗ることはないであろう、ファーストクラスのチケットを購入したのだ!そして朝何も知らない私たちは予定通りサンノゼ空港へ向かった。チェックインカウンターで聞かされた事実は、まさに耳を疑う衝撃的なものであった。「成田空港が大雪で閉鎖のため本日は飛行機は飛びません」・・・・。私は目の前が真っ白になり、倒れそうになった。まさに1日でも早く日本に帰らなくては!!という思いで、必死にこの3日間で引越しを完了させたのである。しかしいくらその場で怒鳴ろうがわめこうが、飛ばないものは飛ばないのだ。というわけで、しょうがなく航空会社から紹介された空港近くのホテルにもう1泊することになってしまった。しかし、これが実は後で私にとっては超ラッキーになるのである。

ホテルに入って、とりあえず何とか日本に帰る手段はないものかと、いろいろなところへ電話しまくった。成田がだめなら関西空港があるではないか!サンノゼー成田の直行がだめなら、サンフランシスコやロサンゼルスや、とにかくどんなルートでも、いくらかかろうがかまわない。当時はそのぐらい焦っていたのだ。しかし、努力もむなしく、その日日本に帰れる方法は何一つなかった。このときばかりは、アメリカと日本の距離の遠さを恨んだ。

二番目の問題発生はホテルで起きた。昼前になって、肛門痛が激しくなってきた。その痛みはどんどん強くなってきて、昼に1度泣き叫ぶぐらいの激痛が走った。大激痛は5分ぐらい続き、しばらくすると落ち着いてくる。しかし落ち着いてくるとは言っても、泣き叫ぶぐらいではないというだけで、痛みはかなり激しいものだった。この日は食事をとることもできず、ただただベッドで泣きながら痛みと闘っていた。そのうち、このままでは飛行機の10時間も耐えられないのではないか、という不安が募ってきた。ファーストクラスとはいえ、さすがに機内で泣き叫ぶわけにはいかない。それにそんな重病の人は、そもそも飛行機に乗せてもらえない。だから健康なフリをしないといけなかったのだが、その演技すらままならないような状況であった。日本にこのままでは帰れない・・・・。ものすごく不安になった。そして激痛の間隔がだんだん狭くなってき、1時間に1度ぐらいのペースで泣き叫ぶ、いわゆる痛みの強さを1から5で表すところの5のレベルがたびたび襲ってくるようになった。

そこで主人が考えたのは、成田空港に救急車を待機させておくという計画だった。私もその計画に同意した。とにかくなんとか10時間のフライトにだけ耐えなければ!!そう覚悟した。しかし、夜中の2時にもう我慢の限界がきた。もうこれ以上我慢できない!ましてや10時間のフライトなんて到底耐え切れない!!というわけで、とうとうアメリカの救急車を呼ぶことにしたのだ。生まれて初めて乗った救急車が、まさかアメリカになろうとは・・・。まずはホテルのemergencyに電話、ホテルから救急車に連絡、10分ほどで屈強な救急隊員たちが6、7名だろうか、ぞろぞろと部屋に入ってきた。そして私に症状を質問してきて、脈をとったりした。そのときは痛みのレベルは3ぐらいになっていたので、なんとか受け応えはできた。だから救急隊員たちも安心してしまったのかもしれない。救急病院に搬送され、なんとその場に30分ぐらい放置されてしまったのだ!その間にまた最高レベル5の激痛が私を襲った。私は冷たい処置室のベッドで「早くしろよ!もう耐えられないんだよ!!」と日本語で泣き叫んでいた。

さんざん待たされた挙句、ようやく医者が来た。そして私のお尻にブスッと注射を突き刺した。するとみるみるうちに痛みが和らいでいき、私も落ち着きを取り戻した。しかし、相当強い痛み止め(恐らくモルヒネ?)なのであろう。痛みはなくなったが、起き上がるとものすごいめまいと吐き気をもよおした。目はうつろになり、よろよろとなんとか抱えられながら歩けるような状態であった。会計を済ませ、タクシーを呼び、その足でドラッグストアに薬を買いに行き、ホテルに戻ったのはもう明け方の6時。9時にはホテルを出ないと行けないから、正味寝られるのは2、3時間だった。でも痛みがなくなったのと、ほぼ1日中痛みと闘った疲れとですぐに眠ることが出来た。

こうしてぎりぎり飛行機に乗る前に痛みがなくなり、10時間のフライトも無事過ごすことが出来、成田空港に救急車を呼ぶ必要もなく日本に帰国できたのであった。よって大雪によるキャンセルは、まさに不幸中の幸いだったのである。もしあのまま飛行機が飛んでいたらどうなっていたか・・・!?想像するだに恐ろしい。それにしても、せっかくファーストクラスに乗ったのに、食事はほとんど食べられず、高級なワインも飲むことが出来ずで、ただただフラットになる快適シートで寝ているだけであったのはなんとも悲しかった。